知己交録

医科28回生
Magill Chair in Anaesthetics / Imperial College London, UK

高田 正雄

積み重ね、育てること

ウィーンの美術史美術館に、ピーテルブリューゲルというオランダの画家の描いた絵、「バベルの塔」が展示されている。この有名な絵は通常、人間の高慢による神への挑戦を象徴するもの、あるいは世界に様々な言語があることを説明する旧約聖書の伝説として示されることが多いが、私には「煉瓦をらせん状に積み重ね、少しずつ天に近づいていく」という人間の意志・情熱・向上心のようなものがイメージされ、大変好きな絵の一つである。そして考えて見ると、この絵は、私の生涯の友人である田中雄二郎先生(以下雄二郎君)の人生をよく語っているように思う。

雄二郎君とは大学3年生の時に、解剖実習で夜遅く居残るオタク系の学生同士ということで親しくなったのが始めである。彼はよく勉強する真面目な学生で、授業出席率は100%近く、彼の授業ノートがクラス中に出回り皆の進級に大きく貢献していた。同級生には天才肌や変わった個性の持ち主も多かったため、当時のやや斜めに構えた世相では、真面目一辺倒にみえる彼はあまり目立つ存在ではなかった。もともとそれほど器用なタイプではなかったし、第二内科に入局したのち全体として堅実な消化器内科医・研究医に育っていったが、伸び悩んでいた時期もあったと記憶している。

彼が本当にその真価を発揮しはじめたのは、卒後20年以上たち総合診療部に転身して教授になり、医科歯科の卒前卒後教育を手がけはじめた時期だろうか。医科歯科とImperialの交換留学プログラムの設立を通じて、私は再び彼と親交を深め、その後現在まで彼の器が徐々に大きくなってきた過程を目の当たりにした。彼の進歩は独特なものであり、人をあっと驚かせる急激な変化の形では起こらず、コンスタントに少しずつ弛みなく行われるもので、一定期間例えば2−3年たつと、非常に大きな発展に結びつく。教育改革、学生指導、臨床研修制度、医学部病院診療管理、そして大学全体の運営と、この10数年彼が医科歯科の発展に貢献してきた業績は計り知れない。また海外からの視点で見ると、彼は現在の日本の大学医学部指導層の中でも、医学・医療の今後の方向に関して最もグローバルな高い見識の持ち主であると考える。

我々の学生時代はまた青臭い時代でもあり、皆いろいろな理想を語ったものだ。しかし年齢を経るに伴い様々なconflict of interestが生じ、皆多かれ少なかれ名誉、権力、地位を追い求めるようになる。かって鮮やかな発色だった水彩画が色褪せていくように、時とともに情熱や純粋な心も消失していく。しかし雄二郎君の描く絵は少し異なっている気がする。水彩に対する油絵のように、絵の具を少しずつ重ね塗りしていくことにより、いつの間にか深みのある重厚な発色が生み出される。彼のこういった独特の発展の仕方を支えてきたものは、人の言うことに耳を傾ける謙虚な姿勢、物事を本質的に改善したいという熱意、そして最終的には責任をもって決断する覚悟かと思う。

人生の残り少なさを感じるようになると、人はいろいろなことを考える。たとえば、我々は何を墓場までもっていけるのだろうか。金や財産はまず無理であることは明らかだが、名誉や学問的業績も意外に難しい。この30年間学問の世界で多くの先達をみてきたが、かってその分野の世界10指に入る高名な学者、半ば神格化されていた人々の名も、引退あるいは逝去後10年もするとほぼ完全に忘れ去られる。論文は残るといわれるが、CNS論文の80%が信憑性に欠けると言われ、かつ学問の進歩自体が加速しているこの頃では、その永続性にも疑問がある。自分が納得できる良い治療を患者に施したということはどうか。それ自体は素晴らしいことであるが、抜群の名医が存在しなくても医療制度さえしっかりしていれば、誰かが同様に患者を助けることができるだろう。

そんな中で、我々が表舞台から去っても一つ完全に残ることがある。それは「人を育てた」、「自分の分野の後進を育てた」という貢献ではないだろうか。次世代の教育をし、知識のみでなく人生の叡智をも伝え、彼らのために学問と医療の道を切り開いて整備していくこと、それが雄二郎君が医学部卒業以来やってきたことのように思う。煉瓦を一つ一つ積んでいき、その結果40年経って塔のような高みに達したということで、バベルの塔が壊れても人類が滅びなかったように、彼に薫陶を受けた同僚・後輩・弟子・学生たちに、必ずやこういった精神が何かの形で受け継がれていくのではないだろうか。

定年という人生の節目を迎え、雄二郎君の今までの大学、学生、後輩のために行ってきた多大な貢献に、心からご苦労様といいたい。また今後も新たな場で働く機会があれば、その際も変わらず、天に向かって煉瓦を積みあげ人を育て導く仕事を続けて欲しいと願う。

「平凡なことを積み重ねてきた非凡な人生」を祝福し、心からの敬意を込めて田中雄二郎先生の教授退任への贈る言葉としたいと思います。

2019年10月22日
ロンドンにて

ピーテルブリューゲル バベルの塔
筆者が2012年に撮影した写真

田中 雄二郎

濃淡織りなす長い交友

高田正雄教授からの寄稿に感謝しつつ、私からもこの長い交友を振り返ってみたい。

東京医科歯科大学医学部医学科に我々は1974年に入学した。彼は現役合格、私は一浪していたので、歳は私が一年上である。以来、45年間に及ぶ交流は濃淡のあるものであったが、彼にとっては淡い思出らしい交流の初期も私にとっては鮮明なものである。

学生の頃、彼のあだなは「じいさん」であった。格好こそ当時の流行の長髪にジーンズで、煙草もよく吸っていて若者風であったが、落ち着いた物腰と発言から誰ともなくそう呼ぶようになった。因みに私は雄二郎という名に因んで「ゆうちゃん」と呼ばれていた。

最初の印象的な思い出は、医学科3年の冬だったかとも思うが、放課後、御茶ノ水駅近くの喫茶店で話し込んだ時に遡る。
突然、彼が「ゆうちゃんは偉いと思う」と言った。久しく褒められたことのなかった私は戸惑った。
その半年前、我々は解剖実習に明け暮れていた。分厚い皮下脂肪の中から皮神経を剖出するのに苦戦して6人の仲間の大半が帰った後も夜遅くまで残っていた時のこと。隣の班の解剖で残っていた彼から「こんなことをして何の意味があると思う?」と尋ねられ、あまり深くも考えず「意味がなくてもやらなければいけないことがあるのでは?」と答えたことを指してのことだった。
周りから一目置かれている友人から理解され評価された経験に心が熱くなったことは今でも覚えている。以来、私にとって彼との交友は濃いものとなり、就活で一緒に横須賀共済病院、神奈川県こども医療センター、虎ノ門病院神経内科などに長期の見学に行ったり、他の友人と北海道一周ドライブ旅行など若き日々を共有することとなった。

学生時代から、彼は意味があると思えばどのような努力も厭わなかった。例えば、病理の勉強にはRobbinsのBasic Pathologyを選んでいた。当時はさほど英語も得意ではなかったと思うが、「ここまで深く病態生理が書いてあれば納得できる、楽しい」 と言いつつよく読み込んでいた。最優秀の成績で卒業したのも当然といえば当然だろう。
彼の妥協を許さない厳しさは自分だけでなく他者にも向けられ、一緒に回った臨床実習では、知識の不確かな教員には軽蔑の色を隠さなかったし、私自身も勉学の詰めの甘さを徹底的に指摘されることとなった。ただ、それは全て理に適っており、物事を少しは深く考えるようになったのはこの体験があってのことである。
卒業後、彼は小児科、私は第二内科と別々の道を歩んだが、それぞれの結婚披露宴の友人代表スピーチをするなどある程度の交流は続いた。
その私の披露宴での彼のスピーチで改めて彼の成熟を痛感させられることになった。彼は「雄二郎君の趣味は規則を守ること」と具体的な例を引きながら的確に当時の私の長所、短所を語り、「妻が 雄二郎君からの電話が終わると あなたは元気になると言うがそれは、何事も真っ直ぐに受け止めてくれるからだろう」 と結んだスピーチで、宴がお開きとなり私が出口で賓客を見送った時に、ある先輩医師が「君は、やっぱり良い友だちを持っているね。」と興奮して祝ってくれたが、その良い友だちとは彼を指している。

その後もお互い米国留学中にお互いの家族と共に再会したりはしたものの、彼が海外に活躍の場を移したこともあり次第に疎遠となっていた。いわば淡い交流の時期であったかもしれない。

私が教育担当の教授となって間もなく、同期の畏友 高瀬浩造教授も交えてカリキュラム改革について議論をしたことがある。その中から生まれた果実が、学生が一人1課題を半年間研究するプロジェクトセメスターであり、彼の現職地であるインペリアルカレッジと本学の提携である。その提携を契機に交流が濃い時期に入っていくことになる。

彼も専門分野での評価が高まり、さらに本学特命教授へ就任の後は一時帰国する回数が増えた。その都度、彼の滞在するホテルに私も一泊し合宿し、深夜まで語り明かすのが最近の習慣になっている。お互いの近況を語り合うのだが、経験したことだけでなく学んだことを語り合う。そこには共に歳を重ねる関係ならではの、人生折々の喜びや悩みも含まれることになる。忖度もなくお互いに意見の違いを指摘し合う議論は常に楽しく、世界を渡り歩いた彼ならではの本物の世界的視野に、私は文字通り蒙を啓かれた。

では何を私が彼に提供し得たかというと甚だ自信はないが、彼の知っている未熟そのものだった私が何とか成熟に向かおうという姿勢が、弛まぬ努力を続ける彼にとっても励みになるのかもしれない。
英語圏で仕事をするようになって既に20年を経過しようとした頃、彼はこう言った。
「最近、漸く会議の隅にいる出席者が小声で交わす英語が聞き取れるようになった」。 私はこの言葉を聞いた後、彼には一体どれだけの困難とそれを越えようとする弛まぬ努力があったのだろうかと思いを巡らしたのを憶えている。
今は濃淡でいえば濃のフェーズにある交流がさらに深化していくことを願いつつ、長い交友に感謝し、彼の健勝を祈って結びとしたい。

(写真左は医学科M3への講義にて学生に語りかける高田正雄教授、右が筆者2017.6)