積み重ね、育てること
ウィーンの美術史美術館に、ピーテルブリューゲルというオランダの画家の描いた絵、「バベルの塔」が展示されている。この有名な絵は通常、人間の高慢による神への挑戦を象徴するもの、あるいは世界に様々な言語があることを説明する旧約聖書の伝説として示されることが多いが、私には「煉瓦をらせん状に積み重ね、少しずつ天に近づいていく」という人間の意志・情熱・向上心のようなものがイメージされ、大変好きな絵の一つである。そして考えて見ると、この絵は、私の生涯の友人である田中雄二郎先生(以下雄二郎君)の人生をよく語っているように思う。
雄二郎君とは大学3年生の時に、解剖実習で夜遅く居残るオタク系の学生同士ということで親しくなったのが始めである。彼はよく勉強する真面目な学生で、授業出席率は100%近く、彼の授業ノートがクラス中に出回り皆の進級に大きく貢献していた。同級生には天才肌や変わった個性の持ち主も多かったため、当時のやや斜めに構えた世相では、真面目一辺倒にみえる彼はあまり目立つ存在ではなかった。もともとそれほど器用なタイプではなかったし、第二内科に入局したのち全体として堅実な消化器内科医・研究医に育っていったが、伸び悩んでいた時期もあったと記憶している。
彼が本当にその真価を発揮しはじめたのは、卒後20年以上たち総合診療部に転身して教授になり、医科歯科の卒前卒後教育を手がけはじめた時期だろうか。医科歯科とImperialの交換留学プログラムの設立を通じて、私は再び彼と親交を深め、その後現在まで彼の器が徐々に大きくなってきた過程を目の当たりにした。彼の進歩は独特なものであり、人をあっと驚かせる急激な変化の形では起こらず、コンスタントに少しずつ弛みなく行われるもので、一定期間例えば2−3年たつと、非常に大きな発展に結びつく。教育改革、学生指導、臨床研修制度、医学部病院診療管理、そして大学全体の運営と、この10数年彼が医科歯科の発展に貢献してきた業績は計り知れない。また海外からの視点で見ると、彼は現在の日本の大学医学部指導層の中でも、医学・医療の今後の方向に関して最もグローバルな高い見識の持ち主であると考える。
我々の学生時代はまた青臭い時代でもあり、皆いろいろな理想を語ったものだ。しかし年齢を経るに伴い様々なconflict of interestが生じ、皆多かれ少なかれ名誉、権力、地位を追い求めるようになる。かって鮮やかな発色だった水彩画が色褪せていくように、時とともに情熱や純粋な心も消失していく。しかし雄二郎君の描く絵は少し異なっている気がする。水彩に対する油絵のように、絵の具を少しずつ重ね塗りしていくことにより、いつの間にか深みのある重厚な発色が生み出される。彼のこういった独特の発展の仕方を支えてきたものは、人の言うことに耳を傾ける謙虚な姿勢、物事を本質的に改善したいという熱意、そして最終的には責任をもって決断する覚悟かと思う。
人生の残り少なさを感じるようになると、人はいろいろなことを考える。たとえば、我々は何を墓場までもっていけるのだろうか。金や財産はまず無理であることは明らかだが、名誉や学問的業績も意外に難しい。この30年間学問の世界で多くの先達をみてきたが、かってその分野の世界10指に入る高名な学者、半ば神格化されていた人々の名も、引退あるいは逝去後10年もするとほぼ完全に忘れ去られる。論文は残るといわれるが、CNS論文の80%が信憑性に欠けると言われ、かつ学問の進歩自体が加速しているこの頃では、その永続性にも疑問がある。自分が納得できる良い治療を患者に施したということはどうか。それ自体は素晴らしいことであるが、抜群の名医が存在しなくても医療制度さえしっかりしていれば、誰かが同様に患者を助けることができるだろう。
そんな中で、我々が表舞台から去っても一つ完全に残ることがある。それは「人を育てた」、「自分の分野の後進を育てた」という貢献ではないだろうか。次世代の教育をし、知識のみでなく人生の叡智をも伝え、彼らのために学問と医療の道を切り開いて整備していくこと、それが雄二郎君が医学部卒業以来やってきたことのように思う。煉瓦を一つ一つ積んでいき、その結果40年経って塔のような高みに達したということで、バベルの塔が壊れても人類が滅びなかったように、彼に薫陶を受けた同僚・後輩・弟子・学生たちに、必ずやこういった精神が何かの形で受け継がれていくのではないだろうか。
定年という人生の節目を迎え、雄二郎君の今までの大学、学生、後輩のために行ってきた多大な貢献に、心からご苦労様といいたい。また今後も新たな場で働く機会があれば、その際も変わらず、天に向かって煉瓦を積みあげ人を育て導く仕事を続けて欲しいと願う。
「平凡なことを積み重ねてきた非凡な人生」を祝福し、心からの敬意を込めて田中雄二郎先生の教授退任への贈る言葉としたいと思います。
2019年10月22日
ロンドンにて