このHPについて~巻頭言

東京医科歯科大学大学院臨床教育開発学分野教授

田中 雄二郎

「定命(じょうみょう)」という言葉を知ったのは数年前に遡る。ある高僧が、子供を亡くし悲しむ母親に、「命は定まったもので子供もその短い人生を生き切ったのだ」と話しているのをテレビで偶然見た時のことである。医師として多くの患者の臨終に立ち会ったが、その日を予測することは難しい。しかし、定年は確実にやってくる、いわば第一の人生の終焉、「定命」である。私の場合は2020年3月31日がその日となる。

私の人生の教科書ともいうべき一冊に、「武内重五郎教授退官記念集」がある。学生時代に接した故武内重五郎教授の講義は、40年以上前であったが今の医学教育の基準からみても全く理にかなった、双方向型の洗練されたものだった。さらに優れていたのは、その教育が、教授一人の技ではなく教室挙げての行為であったことである。結果、武内先生の薫陶が波紋のように教室に拡がっていることを、武内先生の率いる第二内科に入局した私は目の当たりにすることになる。即ち武内先生の教育の対象は、学生のみならず教室員にまで拡がっており、退官記念集に寄せられた元あるいは現役教室員の思い出の数々は、教育という行為が、如何にひとりひとりの人生に大きな影響を与えるかを私に教えてくれた。いわば、この退官記念集は教育の時空を超えた可能性も教えてくれたのだった。

金沢大学と本学で巨大な内科を率いた武内先生とは比べるべくもないが、私も教育を主務とする医学科初の教授として、規模の小さい教室ながら20年近くに渡り多くの教室員、学生と関わってきた。この種の企画の常として批判的な言辞は期待できないにしても、彼らの目を通して自分の第一の人生を振り返ることにより、そこに医学の教育に携わる人々にとって何かしら参考になることがあるのではという期待も込めて、退任記念集をつくることとした。時代も変わっているので、Web上でということにした。資源節約の意味もあるが、もう一つの理由がある。

上記の「武内重五郎教授退官記念集」を落手した経緯である。出版されたのは武内先生退官の時であり、当時米国留学中であった私はその存在すら知り得なかった。数年を経て帰国し久々に大学に出勤したその日、医局の前の廊下に多数の医学雑誌と共に無雑作に捨て置かれていた「持ち出し厳禁」のレッテルが貼られた教室所蔵の退官記念集を見出し、捨てるものならと私は黙って持ち帰った。教授交代に伴い変化する現実に言いようのない虚しさを感じた。教育は空間を超えるとともに時間も越えうるものと願う私としては、もう少し生命の長い伝達方法を期待したという訳である。

武内先生から学び、私は教育の対象は学生に限らないと思い、助言という形でも多く人々に自分の考えを伝えることを心がけてきた。結果、寄せられた原稿を読み改めて自分の行為やひと言が多くの人々の行動に何らかの影響を与えたことを知り、改めて教育という行為の尊さを痛感することとなった。

実は、この退任記念集が公表を前提としていることから、非公開のメッセージも受け付けることとした。学生たちとの関わりは抱えた個人的な悩みを契機としたものも多かったからである。

武内先生に限らず恩師は数多いが、もう一方を感謝と共に紹介したい。稲葉太喜栄先生、小学校の5,6年の担任の先生である。このクラスでは、全員がお互いに誕生日祝いの作文を書くことになっていた。先生はご自分のメッセージを添えて、誕生日祝いの文集として卒業時にクラスのひとりひとりにくださった。私宛の先生からのメッセージの中には、このように記されている。

「自分の経験を一つ一つ意識の目を通して自分の考えの中にある位置に位置づけ、新しい経験をしたときに自由に引き出して巧みに論述している、まとめている、確認し発見している」

今回寄せられた多くの原稿に目を通すと、広い視野とか長期的視点という過褒を頂戴しているが、多少なりとも当たる部分があるとすれば、本質的にはここに指摘された点があってのことだろう。11-2歳の子供に内在する可能性を見抜き言語化した先生には感嘆する他はない。私の卒業した小学校は大田区立赤松小学校、当然いろいろな家庭環境の子供たちが大勢いた。卒業後のクラス会で先生を慕って集まってきた元クラスメートが、成績、家庭環境に依らないこと、先生の暖かな視点は遍く向けられていたことに気付いた。ひとりひとりに向き合うことは、私の心がけてきたもうひとつの課題であるが、その原体験がここにある。

個々に向き合うといっても、実際には微々たることしか出来なかった。写真付きの指導要録を元に学生の顔、名前、出身地、成績を覚えることに注力しただけである。講義や実習、そして廊下やエレベーターなどで会った時には、名前で呼びかけるように努力した。後は、卒業前に提出することになっている自分の今後10年間の将来計画というレポートに、個別に2-3行のコメントを書くくらいだった。

それだけのことだったが、今回寄せられた非公表のメッセージを読むと、「劣等生だった自分を覚えていて言葉をかけてくれたことが励みになった」といった記載が散見されたところを見ると、稲葉先生というよいモデルに出会えたことが自分にとっても彼ら彼女らにとっても幸いだったと思う。

ハーバードとの教育提携で繰り返し登場した「Teaching is Learning」 即ち「教えることは学ぶこと」という言葉通り、私自身が学ぶことも多かった。多くの教室員や学生と接するうちに、女性たちの余りの優秀さとそれが活かしにくい環境を肌で感じ、疲れ切った研修医たちと接する中に業務改善の必要性を痛感した。管理職にある今、その問題意識の下に取り組んでいるが、成長期特有のアイデンティティ・ロスに悩む学生への対処と共に遺憾ながら道半ばである。これらの課題を今後解決していく人々がいると信じたいし、私が「武内重五郎教授退官記念集」から学んだように、このWeb版退任記念集が彼らに何らかの示唆を与えることを期待して止まない。

縷々述べてきたが、教育とは、個々に向き合うことで成立ち、その人生に影響を与え、それが波紋のように時空を越えて拡がっていくものだということを、多くの寄稿を通じて再確認できたような気がする。私の独りよがりで不遜な企画に賛同し、寄稿して頂いた元および現役の教室員、元学生、元研修医、そして上司である吉澤靖之学長、恩師佐藤達夫医科同窓会名誉理事長、元上司で友人でもある渡辺守理事、望外の特別寄稿を執筆してくださった畏友高田正雄教授に心から感謝を捧げたい。また膨大な編集作業をボランティアで引受けてくださった岡田英理子先生、山口久美子先生、藤田勝美さん、宇山恵子さんにも、そして私の第一の人生を支えてくださった松田公子さん始め歴代の秘書、関係者にも御礼を申し上げたい。もちろん尊敬する両親、大切な家族にも。

東京医科歯科大学大学院臨床教育開発学分野教授 田中雄二郎

武内重五郎先生を囲んで
左 高田正雄教授 右 筆者
1980年3月 大学卒業祝賀会
(大学主催、構内のテント)にて
稲葉太喜栄先生と筆者 1967年3月
小学校卒業式にて